2008年10月16日(木) [長年日記]
_ 「少女A」はどこから来て、どこへ去ったのか(後篇)
前篇の終りで
魂を震わせるような中森明菜の「大人はわかってくれない」という絶対的孤独(「1/2の神話」でハッキリと歌われているように本当は「誰もわかってくれない」にも繋がっている)は、結局、少女歌謡というジャンルでは誰にも受け継がれることはなく、明菜自身の成長やそれにともなう芸風の変容とともに永遠に消えた。
と書いた。明菜の「少女A」が
極めて汎用性の高い《セックスをネタにして「大人はわかってくれない」とアジテートするツッパリ少女歌謡》
ではなかったことを縷々解き明かした、その結論だ。しかし、一般に明菜の「ツッパリ路線」は少女歌謡の一ジャンルを作ったと思われているし、また、中山美穂、工藤静香らは明菜フォロワーとみなされてもいる。自分もこの点には異論はない。異論を唱えたいのは「大人は(あるいは誰も)わかってくれない」という明菜のソウルが、少女歌謡ジャンルにおいて、フォロワーに受け継がれたという点、つまり、そこを含めて「ツッパリ少女歌謡」に汎用性を認めている点なのだ。これも前篇で書いたことだが、【「大人はわかってくれない」とアジテート】する歌唱及びリアル・キャラクターは、歌謡界あるいはテレビ・エンターテイメントという保守的な世界において、フォロワーに受け継がれなかったどころか、先人(三原)さえもそれを避けてたフシがある。明菜の「ツッパリ少女歌謡」の汎用性というものに、この反抗性は入っていなかった。
それでは、中森明菜の「ツッパリ少女歌謡」の汎用性とはどこに見い出すべきなのか。ここで登場願うのがキャンディーズだ。*1
70年代アイドル歌謡の最後の煌きと80年代アイドル歌謡の大センセーションを同時に体験した世代の方なら覚えてると思うが、80年代に入り、とくに松田聖子以後の「花の82年組」と言われた明菜世代のアイドルたちがワラワラ登場してからのアイドルたちに対して、百恵・淳子・秀樹・ひろみ他70年代のアイドル歌手たちとは180度様変りしたという印象を持った人はたくさんいると思うのだ。そのへんを、当時の大人の評論家たちは「軽い」と評したものだ。たしかに、百恵のような”銀幕スター”に比せるような重力を伴った「スタア」のイメージは、彼女たちには、もはやなかった。「花の82年組」たちは、ひたすらにアイドルであり「普通の女の子」たちだったのだ。ただ、明菜に関しては、そのへんちょっと微妙なとこがあるので若干の注釈が必要だ(笑)。私の記憶と重なるところもあるので、別の音楽ファンの方の言葉を借りてみる。
あれだけ「隣の明菜ちゃん」な顔を随所に見せながらも、かのビートたけしが当時「中森明菜ほど近づきがたい大スターのオーラをたたえている人は居ない」と言っていたほどに、時によっては世界を掌握した女王のごとき風格を見せていたのである。
平岡正明著『中森明菜/歌謡曲の終幕』でも、明菜は戦後歌謡曲の系譜を受け継いだ最後の歌い手と捉えられているように、そのパフォーマンスには、たしかに、他の「82年組」とは一線を画した「スタアのオーラ」があったと見る人は多い。私もその一人だ。しかし、歌を離れるとたちどころにそのオーラは消失し、「隣の明菜ちゃん」、「普通の女の子」になってしまったことも多くのファンの認めるところだろう。つまり、明菜は、百恵の最後の煌めきの中にあった「戦後歌謡曲の重力」=「一人のスタアの物語に集約されるドラマ」を身にまといつつも、物語(ドラマ)が消失したあとの「軽さ」、「普通さ」といった80年代的な要素をも同時に備えていたのである。
この「軽さ」の由来である。これをアイドル歌謡にもたらしたのは、百恵では勿論なかった。少女歌謡というジャンルからは、若干外れるので忘れられがちだが、70年代後半の同時期に絶頂期を迎えたキャンディーズとピンク・レディーの存在は重要である。「花の82年組」で一気に開花する「軽さ」、「普通さ」を説明するファクターとして重要なのは、キャンディーズとピンク・レディーなのだ。しかし、このあたりの流れを説明するにあたっては、歌謡史的に明らかにエポックメーキングな存在だったキャンディーズを引用したほうが、話の筋がクリアになると思われるので、ここでは、キャンディーズに絞って説明してみる。ただし、キャンディーズは私の専門ではないので(笑)、他の方の慧眼あふれる評論の一部を引用しつつ進めることをご容赦願いたい。
最初は、キャンディーズとフォークについての示唆的な一文から。*2
実際いま考えても、キャンディーズはぎりぎりの線で健全なる「大衆フォーク」とつながっていたけれど、「非現実・非日常」を売りにしたピンク・レディーーは、もう「バブルの精神」の先駆けだったと思います。
こちらは、キャンディーズの歌謡史における過渡性を音韻的に説く文章。
現在のいわゆるJ-ポップの世界では鼻濁音を使う歌手は皆無に近く、一方で演歌の世界では今でも鼻濁音をしっかり発音するように徹底指導されるということですから、伝統的な歌謡曲では鼻濁音にこだわり、フォーク・ロック〜ニューミュージック〜J-ポップ系の音楽ではこだわらないという傾向があるようです。しっかり検証したわけではありませんが、印象としてはそうです。
それで、しっかり鼻濁音を使っているキャンディーズは歌謡曲の伝統の中に属するグループだった、というのであれば話は簡単なのですが、実はそれほど単純ではないのです。
(hΛl註:以下、アルバム・ヴァージョンとライブ・ヴァージョンの「春一番」で今日のJ-POP的な濁音がハッキリと使われていること、つまり、キャンディーズは古い歌謡曲と今のJ-POPとの過渡期に出てきたグループだったということが示唆されている。)
吉田拓郎、南こうせつらによる70年代のフォークブームが戦後歌謡曲を時代遅れなものにし、同じ大衆音楽というカテゴリの歌謡曲に引導を渡したのは確かだろう*3。しかし、歌謡曲は、のちにJ-POPに変容していくように、実は実態のない大衆の想念や欲情の音楽的反映に過ぎないのであり、容れ物さえ新しくしてグニャグニャ変容を遂げれば、大衆のソウルを集約し、それをリアルに表現する限りにおいて生き永らえるものだったのである。フォークブームは「新しい歌謡曲」を生む触媒になった。77年に「ふつうの女の子に戻りたい」と宣言したキャンディーズは、その宣言を待つまでもなく、それまでの活動期間中、既に「新しい歌謡曲」を誕生させていたのだ。「新しい歌謡曲」とは、フォークの時代を反映し、その歌が「ぎりぎりの線で健全なる『大衆フォーク』」だったと感じる人がいたような、大衆のリアルな共感を得る「普通の女の子の音楽」であり、音韻的には「鼻濁音から濁音へ」というJ-POPへの流れに向って生まれた歌だった。*4
この「普通の女の子の音楽」こそ、スタアオーラの消えた「花の82年組」の「軽さ」、「普通さ」に繋がっていったのである。大ヒットを連発して以後のスタアオーラはさておき、デビュー2作目で、まだペーペーの新人歌手だった中森明菜の「少女A」もまた、「荒れる学校」を時代背景に生まれた「普通の女の子の音楽」だった。シングルジャケットの写真も、第1作目の「スローモーション」とは打って変わって、アイドルのジャケ写にありがちな作り笑顔も目を大きく見せるアイメイクもない、睨みを効かせて憮然とした、およそスタアらしくない「普通の女の子」然としたジャケットだった(笑)。後の「1/2の神話」で「誰も私 わかってくれない」と吐露し、「少女A」で「特別じゃない どこにもいるわ ワタシ少女A」と”アジテート”する中森明菜もまた、キャンディーズの血脈を受け継ぐと同時に、社会的背景が類推できる反抗性キャラゆえに「大衆フォーク」寄りと表現できる「普通の女の子」(”女の子フォーク”の歌い手)だったのだ。タイトル「少女A」もまた、我々の隣にいたり、すれ違ったりするかもしれない、「どこにでもいる」、「匿名」の存在で置き換えられる女の子を象徴していたのは、歌謡史と社会問題を踏まえた作家、売野雅勇の集団的無意識(byユング)による創作だったと言ったら「面白い偽論」になるだろうか。
そう、「ツッパリ少女歌謡」の汎用性というなら、この点なのだ。肝は、匿名で置き換えられるような「普通の女の子」を主人公として「ツッパリソング」が成立していることなのである。しかし、メディアの作用は皮肉である。「普通の女の子」が「ツッパリソング」を歌った、そのリアルな衝撃ゆえに、逆に中森明菜の「大きな物語」が作られてしまったのだから。
「セックスをネタにしたツッパリ少女歌謡」は後期山口百恵の歌で生まれ、「大人はわかってくれない」は荒れる学校を背景に生まれた社会派学園ドラマ「3年B組金八先生」で一躍アイドルになった三原順子の演技上のキャラクターとして立ち現れ、その2つは中森明菜に受け継がれた。しかし、そこで、生まれた《セックスをネタにして「大人はわかってくれない」とアジテートするツッパリ少女歌謡》、つまり、「少女A」、「1/2の神話」で見せた明菜の煌きは、誰にも引き継がれることなく永遠に消え去ったのだ。初期明菜の歌で結実し、後のフォロワーに受け継がれたのはキャンディーズの血脈である「普通の女の子」の存在感と百恵の遺産である「エロティックなツッパリ(自立した)少女歌謡」の融合という、80年代以降の少女文化の核となるような、いかにも今日的な要素だった。時代は一歩一歩匿名性(普通っぽさ)に近づき、物語と神話は永遠に消えた。そんな時代の少女歌謡の幕開けの一曲が「少女A」だったのだと思う。
*1 ピンク・レディーもスタアの敷居を下げたという点ではキャンディーズと同じ評価をしていいと思うが、後に書く、音楽史的流れからすると、キャンディーズのほうが話の筋を明瞭にするのに適しているので、ここではピンク・レディーについては割愛する。
*2 ピンク・レディーは「バブルの精神」の先触れだったという解釈、面白いです。
*3 そして、フォークソングもまた、松任谷由実定義したところの「ニューミュージック」の登場によって同じ運命を辿ったのは皮肉な話だ。
*4 引用元の文章では、キャンディーズと区別されて、ピンク・レディーや80年代以降のアイドル歌謡は否定されているのだけど、フォークソングが、大衆は「大きな物語」ではなく「普通っぽさ」に共感するのだということを証明したことは、歌謡曲が再び、大衆のリアルな欲望や感情を反映する契機になったという点で、その影響を否定できないと思うのだ。
_ もう、おせちの申し込みが始まったーよ。都内百貨店もお歳暮商戦スタートしてんだよなぁ。
やっばいです。一年の〆の足音がヒタヒタと近寄ってきてるんであります。
ま、営業的なことはおいといて‥一年の経つのって(以下自粛)。クリスマスツリーが出てくるのも今月末ぐらいからだっけ。クハァ。
こちらは、大丸おせちのアフィリエイト到着ってことで。いや、アフィリエイトが近頃のような不評を買うはるか昔に、いろんなアフィリエイトに実は登録しまくってたりしてねぇ(オホホホ)、結局、あまり貼ってないんですけど(取り替えるのが面倒だし、説得力のあるブログの内容と連動してなきゃ効果ないのだよね)、登録自体はそのままにしてあるんで、いろいろと届いたりするんです。せっかくなんで、面白いの貼ってみました。あ、踏まなくてけっこうですからね。なんの足しにもならない(~~;
ドラえもんおせちは、三の重の「ドラえもんの鈴」と「ドラえもん羊羹」がドラえもんノベルティーってだけで、他は普通なのね。お重の蓋が黄金のドラえもんってのは、子供に媚びすぎではないか? そして、藤野真紀子=日本のマーサ・スチュワート(←私だけが言っている)のおせち。藤野真紀子さん、覚えてますか? 料理研究家という肩書きはなんとなく知ってる人も多いと思うんですけど、この人、2005年の郵政解散による第44回衆議院議員総選挙で衆院議員に当選してる自民党の一応代議士でもあるんですね。なんだか夢まぼろしのようで、すっかり忘却の彼方に飛び去ってました。けっこう好みなんですよね、男目線で(このへん我ながら複雑である)。たぶん、安達祐実ママの写真集にご執心なピストン西沢さんも好みじゃないかと思う(と言う表現で通じる何かがあるだろうか)。そういえば、マーサ・スチュワートの記事にも年上スキーのタグつけておかなきゃな。
_ 女性議員
前セクション続きドス(引きずるエセ京都人風)。藤野真紀子=マーサ・スチュワート→おねえさん大好き〜というのは、まぁ、おいといて。
10月6日の衆院本会議(民主党が提出した郵政民営化法案の趣旨説明と各党による質疑)を欠席して福岡市であった二つのトークショーに出演した為、「議員なのに国会に出ないのは無責任」と内外から批判された。
via: 藤野真紀子 - Wikipedia
あ、そんなことあったっけ。しょーもないなぁ。知名度と女性って理由だけで、かき集められて当選しちゃう女性議員には、しょーもない人もたしかにいる(どっかのお姫様とか)。しかし、中山恭子とか片山さつきとか佐藤ゆかりとか、一応、志とキャリアと知性のある人もいるからね、一概に責めるべきでないとも思う。片山さつきや佐藤ゆかりは、ちょっと叩かれすぎのような気がするからねぇ。ゆかりタンなんか、最近も専門を生かした経済提言の書を出してるところは買えると思うんだけどな(笑)。ところで、志とキャリアと知性のある女性議員って自民党のほうはパッと浮ぶんだけど、民主党ってどうなんだろう。オープンなイメージがあるわりには、優秀な女性議員って思い浮ばないような気も。もしかして、自民党よりも保守的だったりしない、そのへん? ここのところ戦略転換をしたのか、「なんでも反対」を止めたことには好感を持ってるのだけど、先日の小沢一任の一件(「解散戦略、補正予算賛否を小沢氏に一任」)といい、どうも党の体質に不安を感じさせるところがねぇ。女性候補については、知名度とタレント性だけに頼った人選のみで立てずに、本当に国会議員としての資質があるような、広い分野でいっぱしの意見ができる人を実業家、ビジネスマン、官僚、学者といった政経関係のプロフェッショナルからリクルートしてきて、アッと言わせてほしいものだ。そうだ、福島みずほさん、キレイになったわ。髪伸ばしたのは正解だね。
_ 夜想曲第20番嬰ハ短調(遺作)
実はまだ「風のガーデン」観てないのです。その前に平原綾香のエンディングテーマを聴いてしまった。曲が、ショパンの「夜想曲第20番・遺作」なんですね。「戦場のピアニスト」の冒頭の空襲で主人公が演奏の中断を余儀なくされた、あの静かな哀しみを湛えた曲です。たった62小節の短い曲の中に、心が砕かれるようにハッとさせられる音型があったり、小さく震える美しい魂のトリルがあったりと、とてもドラマティックな曲想。譜面の最初に書いてあるイタリア語による速度記号”Lento con gran espressione(レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ)”の意味は、「ゆっくりと、そして、とても表情豊かに」、この曲の俗称にもなっています。平原さんの「ジュピター」は、あまりにも世界観が大きすぎて、なんだか大げさだなぁと敬遠気味だったワタクシですが、この「ノクターン」は、心に染み渡ってくる抑えられたボーカルと静かに絡み合うような繊細なピアノの伴奏が良いです。あ、でも、盛り上り部分はちょっとハイになりすぎかな(アハハ)。そうだ、マイコーの「ベンのテーマ」にボーカルのトーンと歌い方が似てもいるような(爆)
アラウ様のレント・コン・グラン・エスプレッシオーネも見っけたので貼り貼り。たまには静かなピアノ曲でも聴いてみたいという方、どんぞ浸ってください。
_ 「樹海の糸」のアイマス
うわー、あるんだ(笑) 水底に沈んでいく図は林檎の「依存症」でも使われてなかったっけ。
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2008-10-13 |
アイドルマスター 『樹海の糸』 春香ソロ (03:39) 元のPV見てきたら?笑 もっと真面目に春香を |
_ メディアは民主的であればあるほど、情報操作に脆弱なのかもしれない
それよりも重要だと思われるのは、Diggのコンテンツが、一般的なイメージと異なり、実際にはごく少数のユーザによって半ば恣意的にコントロールされていたのではないか、ということだ。Diggは2004年の登場以来、記事の投稿から評価まですべてユーザに委ねられた真に「民主的な」メディアを自任し、それゆえにWeb 2.0の旗手としてもてはやされてきた。それだけに、これは重大な問題なのではないかと思う。
実のところ私は、メディアが民主的であればあるほど、ある種の情報操作に脆弱なのではないかと考えている。「群衆の叡智」と言ったところで、実情はごく少数の意見がストレートに大きく投影された影絵のようなものでしかない可能性があるわけだ。むしろ、なまじ「『みんなの意見』は案外正しい」などと素直に思い込んでいると、誰かの仕込みに容易にひっかかってしまいそうである。こうした陥穽を、どこまで技術的な工夫で避けられるかが、今後ソーシャルニュースサイトを設計運営する上で大きな課題となると考えられる。
前々から書いてることなんだけど、インターネットの匿名投票やWaiWai騒動のときの2ちゃんねるの特定板における激烈で一方的すぎたバッシングなどは、どうも、それが本当に「みんな」の意見の反映なのか、信用するのに躊躇させるもんがあるんだよなぁ。そのへんの疑問に重なる文章だと思う。
_ ブログの作法
そういえば、WaiWaiのほう、まだリンクされちゃったりしてるみたい。ええと、批判喰らってます(~~; あのへんは激しかったからなぁ。批判や反応、ブログの書き方という点で、なるほどと思うとともに、戒めとしたい(笑)と思った文章を引用しておく。狙ってるわけではないんだけどね、直情径行を羽撃かせちゃうときがあるんだな。イケナイイケナイ。
時代のあだ花として激しく輝きたいのか(bold路線)、
自分のための記録として地味ながら長生きしたいのか(old路線)。
私はというと、
いろんなところで書いたり語ったりしていますが、
基本的に自分のためにブログを書いています。
完全old路線です。
bold 対 old の割合が 1 : 10000 くらい。
なるべく「辛口成分 ≒ 0」で
今後もブログを続けていきたいと思っています。
なので、
辛口痛快炎上記事を狙って書くようなことはしません。
炎上でブログが続かなくなってしまったら、
自分にとってなんのメリットもないからです。
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